父の時計が動いていた日

watch 時計

前回、私は「父の時計だけが、別枠である理由」という記事を書いた。

私にとってそのロンジンは、単なる腕時計ではない。

 

父が過ごした時間を引き継ぐもの。

父が歩んだ人生への敬意。

母が迷うことなく「あなたが持ちなさい」と渡してくれた思い。

 

そんなことを書いた。

 

それでも、電池交換を続ける

その時計はクオーツ式である。

しかも決して正確に時を刻み続ける優秀な時計ではない。

 

普段使うこともないのだが、それでも私は定期的に電池を交換している。

合理的に考えれば無意味な行為かもしれない。

使わない時計にお金をかける必要はない。

それでも私はそうしている。

 

父の時間を止めたくない。

そんな気持ちがどこかにあるのだと思う。

 

 

不思議なこと・・・

そして今日、不思議なことがあった。

 

今日は、そう、父の日である。

 

ふと思い立って、久しぶりにその時計を手に取った。

正直、電池はもう切れていると思っていた。

 

ところが時計は動いていた。

 

それだけではない。

示していた時刻が、驚くほど正確だったのである。

思わずパソコンの時刻と見比べた。

ほとんど誤差がない。

私はしばらく時計を見つめてしまった。

 

いつもは少し早く進んでしまう。

そんな時計なのに、今日はほぼ正確な時間を示している……。

 

もちろん偶然なのだろう。

時計が父の日を知っているわけではない。

父がどこかから動かしたわけでもない。

そんなことは分かっている。

 

私はまず合理的に考える人間である。

 

しかし人生には、ときどき理屈だけでは片付けたくない出来事がある。

 

父の日に、父のことを思い出し、父から受け継いだ時計を手に取った。

そしてその時計が正確に時を刻んでいた。

ただそれだけのことである。

それ以上でも、それ以下でもない。

 

しかし私は少しだけ嬉しかった。

父が帰ってきたわけではないし、奇跡というわけでもない。

それでも、その瞬間だけは父を近くに感じた。

 

そういえば父も腕時計が好きだった。

若い頃にはRADOを愛用していた。

運転手時代の名残で、時計は右手に着けていた。

農作業中にその時計を失くした時は、本当に残念そうだった。

そんな父の姿を思い出した。

 

私にとって、この時計が示す意味

時計というものは不思議だ。

 

時間を知るための道具でありながら、時として時間そのものを思い出させてくれる。

 

今日、父の時計が正しい時を刻んでいた。

それは単なる偶然だったのかもしれない。

でも私は、その偶然を大切にしたいと思う。

 

人生には答えがない。

 

しかし時々、こういう小さな出来事が、

「それでいいんだ」

と語りかけてくれる気がする。

 

父の時計は今日も静かに動いている。

 

そして私もまた、父から受け継いだ時間の続きを生きている。

 

 

父のRADO
私の父は九州で米農家をしていました。

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