父の時計だけが、別枠である理由

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父の時計だけが、別枠である理由

先日、YouTubeを眺めているとき、山田五郎 さんがある芸能人に機械式時計の魅力を語っている動画を偶然目にした。

山田さんはその中で、自身の著書である 機械式時計大全 を手渡しながら、時計について丁寧に言葉を重ねていた。

ゼンマイや脱進機といった動力機構の話、機械としての緻密さや正確さについての専門的な解説も印象的だった。けれど、私の心に残ったのは、そうした知識そのものではない。

山田さんが一貫して伝えようとしていたのは、「時計は、単に時を示す道具ではない」という姿勢だったように思う。

時間を知るだけなら、正確な時計はいくらでもある。
スマートフォンでも事足りる。

それでもなお、人が時計について語り、受け継ぎ、手元に残そうとするのはなぜなのか。

その問いが、不意に、私自身の中にあった一本の時計を呼び起こした。


父の遺した時計がある。


それはロンジンの腕時計で、今でも動く。
ただし、必ずしも正確に時を刻んではくれない。

クオーツの腕時計だが、長く身に着けていないため、放っておけば止まってしまう。
それでも私は、使ってもいないその時計の電池を、定期的に入れ替えている。

実用として考えれば、合理的とは言えない。
正確な時計はいくらでもあるし、日常生活で困ることは何もない。

それでも、止めたままにはしない。


父が過ごした時間を、引き継ぐということ

その時計は、父が生きた時間とともにあった。
仕事をし、家庭を支え、日々を積み重ねてきた時間のそばに、常にあった。

この時計が刻んだのは、単なる「時刻」ではない。
父が過ごした人生そのものだと思っている。

だから私は、この時計を時間を知るための道具としては見ていない。
引き継ぐものとして受け取っている。


正確である必要はない。ただ、動いていてほしい

この時計が刻む時間は、私の現在の時間ではない。

それでも、父が過ごした時間と地続きであることだけは、途切れさせたくないと思っている。

正確である必要はない。
遅れても、進んでもいい。
ただ、動いていてほしい。

それは時間を測るためではなく、時間が確かに続いていることをこちらが忘れないためだ。

使っていない時計の電池を替えるという行為は、時間を管理することではない。
時間を尊重するための、小さな儀式のようなものだと感じている。


人生(時間)をリスペクトする、という距離感

もしこの時計を、普段使いの一本として身に着けてしまえば、それは私の時間になってしまう。

もちろんそれが悪いわけではない。
けれど私は、この時計だけは、そうしたくなかった。

この時計は、父が過ごした人生(時間)を静かに尊重するための存在であってほしい。

だからこそ、必要以上に身に着けず、必要以上に語らず、

ただそこにある。

それが、私なりのリスペクトだ。


母が迷わず渡してくれたという事実

そして何より大きかったのは、母がその時計を、迷うことなく「あなたが持ちなさい」と言ってくれたことだ。

そこには説明も、条件もなかった。ただ自然に、そうあるべきものとして私に託された。

それは所有権の移動ではなく、何らかのの継承だったのだと思う。

父が生きた時間をどう受け止め、どう扱うか。

それを私に委ねてくれた、ということだ。


使わないという選択も、継承のかたち

だからこの時計は、他のどの時計とも並ばない。

比較もしない。

性能でもなく、価格でもなく、TPOでもない。

この時計だけは、時間そのものを考えるための存在だ。

使わないという選択も、そして止めずに動かし続けるという選択も、どちらも私なりの継承なのだと思っている。


結論として

時計は本来、時間を測る道具だ。

けれど時に、時間を思い出すための存在にもなる。

父の時計は、私にとって後者だ。

正確ではなくてもいい。
役に立たなくてもいい。

ただ、父が生きた時間が、確かにここにあったことを忘れずにいるために。

だからこの一本だけは、これからもずっと、別枠であり続ける。

 

 


機械式時計大全 (講談社選書メチエ)

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